ABOUT
塙保己一とは
延享3年(1746)埼玉県本庄市の生まれ。
江戸時代に活躍した全盲の国学者。
7歳で病気のために失明、15歳で江戸に出て
雨富須賀一検校に入門し、鍼・灸・按摩を習
うが上達せず隣家の松平乗尹から学問を学ぶ。
その後萩原宗固・山岡浚明らから文学・律令
神道・医学などを学ぶ。その後勧められ賀茂
真淵の門に入り、六国史を学ぶ。
安永4年(1775)塙姓を称し、名を保己一と改
める。同8年には、散逸のおそれのある貴重な
書物を集めての版行を決意し、「群書類従」の
編集を始めた。これ以降41年の歳月をかけ
「群書類従」約670巻の大文献を出版する。
「参考源平盛衰記」の校訂や「大日本史」の
校正にも参画、また幕府より「和学講談所」の
設立、「日本後紀」の発見など様々な大事業を
遂行している。
文政4年(1821)9月12日76歳で逝去。
ヘレンケラー女史が師として尊敬し、
生きる目標となされた。
世のため後のために。
群書類従とは
盲学者協保己ーが、散逸のおそれのある一巻、二巻の貴重な審物を集め、厳密に校訂して関版した大叢書。総数1.273種(現在1.277種)
の貴重書を25部門に分類して収録し、670冊(現在665冊、目録1冊)に仕立てられている。この叢書によって、わが国の貴重な書物が
永久に散逸から救われ、いつでも、だれでもが利用できるようになった思恵はまことに大きい。版木はすべて桜材で、総計17.244枚あり、
昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定され、版木倉庫内に完全保管されている。このほか『徒然草j r元暦校本万葉集jほか版木
(東京都有形文化財・輿鐙)、及びf御江戸図説集覧jほか版木(渋谷区重要文化財)も保管されている。
版下浄書者=屋代弘賢、大田南畝、町田清興、羽州亀田城主岩城伊予守、関口雄助、保己ーの妻安養院、娘とせ、ほか。
版木彫刻者=宮田六を衛門、江川八を衛門、戸山光成、ほか。
版木沼立者=名古屋吉右衛門、大砲常蔵、大臨常雄、日本橋小鉄、ほか。
明治10年(1877)、塙忠韶(保己ー孫)が版木を浅草文庫に献納し、のち東京大学の所轄となり、文部省構内の倉庫に収蔵された。
その後、世間では版木の行方は不明とされていたが、明治42年(1909)末に井上通泰博士(本会創立発起人)がこれを発見、大学に願い
出て倉庫内で摺立てを再開した。さらに大正3年(1914)、大学の許可を得て版木を四谷・愛染院(本会事務所所在先)境内の倉庫に
移した。同11年には、かねて大学が本会に、版木を下付する条件として示していた法人組織(社団法人)に改組し、翌年2月に版木が大学
から本会に正式に下付された。その直後の同年9月、関東大震災が発生し、版木倉庫は全壊したが、幸い版本は焼失をまぬがれた。本会は
ただちに版木収蔵施般の建造を計画、渋沢栄一子爵(本会創立発起人)が先頭に立って、協賛を呼びかけ、昭和2年(1927)3月、現在地
に温故学会会館を建設しここに版木を移した。
昭利20年(1945)5月25目、本会周辺は大空襲を受けてことごとく続失した。念館内にも焼夷弾2発が飛び込んだが、当日替の会長齋藤茂三郎1
が手づかみで館外ヘ投げだし、会館も版木も奇蹟的に焼失をまぬがれた。
本会の記録によると、保己一の時代から今日にいたる200余年間に摺立てた「群書類従」は優に70万冊を越える。この間、本叢書が皇室から
英国のケンブリッジ大学に寄贈され、その後主要各国にも納本され、わが国を代表する貴重本として高く評価されている。また、希望者には
冊数に関わらず、一冊でも和装本に調整し、頒布を行っている。
「群書類従」は、全世界に共通の文化遺産であり、塙保己一の業績を永遠に伝えるあかしである。